戦ってはいけない!?異形の艦橋をもつ戦艦「扶桑」

戦ってはいけない!?異形の艦橋をもつ戦艦「扶桑」 艦艇

日本海軍初の超弩級戦艦として生まれた「扶桑」。

多くの期待をこめて完成した戦艦でしたが、実際にはほぼ活躍できませんでした。

なぜ活躍できなかったのでしょうか?

今回は扶桑の生涯に迫ります。

日本初!超弩級戦艦の誕生

扶桑(進水式)

日露戦争が終わった後の1906年、明治39年、イギリスが弩級戦艦ドレッドノートを就役させます。

今までの戦艦の概念を覆すほど大きく、強力な武装を兼ね備えていました。

これに触発された列強各国が一斉にドレッドノートに追いつき、追い越すべく躍起になり、建艦競争が始まりました。

よく耳にする「弩級」「超弩級」という言葉の「弩」とは、ドレッドノートの「ド」のことです。

ドレッドノート級を「弩級」、ドレッドノートを超えるものを「超弩級」と呼ぶようになりました。

ドレッドノートの誕生は、それぐらい影響を与える出来事だったのです。

そして弩級戦艦の時代はあっという間に終わり、各国は超弩級戦艦の建造に意欲を燃やします。

日本海軍も巡洋戦艦金剛をイギリスに発注し、ヴィッカース社の指導・支援の下、同型艦を国内で建造。

これによってイギリスから建艦技術を学ぶことに成功します。

そんな中で造られた戦艦扶桑。

日本初の超弩級戦艦となりました。

1915年、大正4年11月8日に竣工。

艦名の扶桑は、日本国の古い異名のひとつです。

呉海軍工廠のドックで建造されましたが、3万トン級の巨艦をドックで建造することは、世界初の試みでした。

進水式は通常なら船台から海に滑り落ちるのが習わしであり、醍醐味でもありましたが、ドックで完成した扶桑はそれができませんでした。

そのままでは派手さがないため、圧縮空気で紙吹雪を飛ばす演出をしたそうです。

異形の艦橋をもつ戦艦扶桑

扶桑(第一次近代化改装後)

竣工当初は世界最大を誇り、日本の海軍力を見せつけるかのような象徴艦となった扶桑でしたが、実のところ、欠陥だらけでした。

当時主流だった35.6センチ連装砲を6基搭載していましたが、撃てば爆風が艦全体を襲いました。

おまけに主砲発射後の大量の煙は観測の邪魔をする始末。

砲塔を配置する位置が悪かったのです。

また、速力は20ノットほど。

同時期に竣工した金剛は超弩級戦艦ではありませんが、30ノット以上の高速を誇り、長門も25ノット前後は出ましたから、それらに比べ明らかに遅かったのです。

これでは他の艦艇と艦隊行動ができません。

また武装を重視した設計であったがために、防御は手薄に。

全長の半分が被弾危険箇所として認定されるほどでした。

このままでは使い物にならない、ということで、2度にわたる改装が施されます。

問題となっていた主砲発射後の爆風対策として、艦橋部分の新設と改装、主砲仰角の引き上げが行われます。

この改装で、艦橋の高さは地上50メートルに達します。

ビルなら12階相当の高さもあり、さらに背面下部がくびれたいびつな形。

不安定な印象を受けますが、これは3番砲塔上に水上観測機を発進させるカタパルトを増設したためです。

2度目の改装ではバルジを増設し、8メートルの測距儀を設置、射撃指揮装置も一新されました。

機関の換装により改装後の公試では24.7ノットを発揮。

装備も速力も他の戦艦に追いついた感じですが、実際には常に24ノットを出せる状態ではありませんでした。

捷一号作戦の頃は扶桑型が示した速力は改装前と変わらない18ノット〜21.5ノット程度にとどまり、日本海軍の戦艦中最も遅かったという話もあります。

扶桑の艦長を務めたことのある鶴岡大佐は『結果的には、扶桑、山城という戦艦は、本来、太平洋戦争で使ってはならないフネだったわけですね』と回想しています。

活躍できなかった扶桑

戦艦扶桑

1933年、昭和8年には海軍大尉として高松宮宣仁親王が乗艦するなど、何かと話題性の多かった扶桑。

しかし太平洋戦争緒戦では、真珠湾攻撃に向かった南雲機動部隊の後詰め・曳航艦として第一艦隊各艦と共に出撃するも、特にすることもなく、そのまま柱島に戻っています。

1942年のミッドウェー海戦時には日本を出撃、アリューシャン方面に向かいますが、アメリカ軍と交戦することはなく、再び何もせずに日本に戻ります。

そしてその後は扶桑、山城、伊勢、日向の4戦艦は作戦行動をすることなく、いわゆる「柱島艦隊」として実弾射撃訓練に従事したり、海軍兵学校の練習艦として使用されました。

ミッドウェー海戦で4隻の主力空母を失った日本は、戦艦・重巡の一部を空母へ改造することを検討します。

しかし全通飛行甲板型にするにはあまりにも工期がかかるため、船の一部のみを改装する航空戦艦への改装に。

扶桑も改装案の中にありましたが、たまたま日向が5番砲塔損傷の事故を起こしたことから、改装は伊勢・日向の2隻となりました。

1943年6月8日、柱島に停泊していた扶桑は、戦艦陸奥の爆沈事故に遭遇します。

当時、陸奥の艦長だった三好輝彦大佐は、海軍兵学校の同期であった扶桑の鶴岡艦長と扶桑の艦長室で歓談していました。

旧交を温めた2人でしたが、その後三好艦長が陸奥に戻った直後、陸奥が爆発。

三好艦長は巻き込まれて戦死してしまうのです。

7月には長門とともに航空隊の演習目標艦に。

扶桑はトラック泊地に進出することになりましたが、基本的に出撃することはありませんでした。

日本の戦艦は活躍しなかったという話がありますが、扶桑に関しては単に温存していたというよりは、旧式艦で速力が遅いことで戦列に加えられないという事情も大きかったようです。

レイテ沖海戦で散った戦艦扶桑

戦艦扶桑(1941年)

1944年10月、レイテ沖海戦が始まります。

太平洋戦争の天王山。

日本は絶対国防圏死守のため、是が非でも勝たなければなりませんでした。

扶桑はここにきてようやく出撃の機会を与えられます。

扶桑を擁する第一遊撃部隊・第三部隊は速度が遅く、航続力が少ないため、当初より第一遊撃部隊本体とは分離し、敵哨戒機により発見される可能性が高いレイテ湾への最短航路をとっていました。

敵の攻撃は第一部隊の武蔵に集中していたため、第三部隊は大規模な攻撃を受けることはなく、ミンダナオ海で急降下爆撃機約20に襲撃された程度。

しかし扶桑にはカタパルト附近に爆弾1発が命中、航空用ガソリンに引火して約1時間燃え続けました。

10月25日には艦隊はスリガオ海峡に突入。

しかしアメリカ軍の第7艦隊第77任務部隊第2群が待ち構えており、激しい撃ちあいとなります。

扶桑はここで初めて戦闘らしい戦闘に遭遇するのです。

敵駆逐艦の放った魚雷が扶桑の右舷中央部に命中。

第三・第四砲塔の弾火薬庫が誘爆し、午前3時10分、扶桑の船体は真っ二つに割れてしまいました。

夜中の激戦であったがゆえに、いつどの段階でどの船が沈没したかについては諸説ありますが、遅れて海域に到着した志摩艦隊の将兵は、炎上する2つの艦船を確認し、扶桑と山城と判断しましたが、実際にはどちらも分断された扶桑だったそうです。

扶桑に魚雷を命中させた駆逐艦メルビンの艦橋にはキルマークが描かれました。

キルマークとは撃沈した航空機や船の数をマークで描くもの。

船の場合は艦影が描かれるのですが、メルビンに描かれた扶桑は、あの独特の艦橋の特徴をしっかりとらえたものだったそうです。

そして、終戦から72年が過ぎた2017年12月に故ポール・アレン氏の財団が、沈没した扶桑を発見しました。

たしかに船体は2つに割れていましたが、独特の艦橋は船体から離れず、残っていたようです。

なかなか活躍の場を見つけることができずに沈んでしまった扶桑。

航空機が主戦力なった現代では、扶桑のような大型戦艦が作られることはもうありません。

ド迫力の雄姿を実際に目にすることができないのは残念です。

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