日本海軍最速機「彩雲」!艦上偵察機の実力や開発経緯

日本海軍最速機「彩雲」!艦上偵察機の実力や開発経緯 航空機

日本海軍の実用化されている航空機の中で最速のスピードを誇った艦上偵察機「彩雲」。

いったいどのような活躍を見せたのでしょうか?

開発経緯と共に見ていきましょう。

世界でも類を見ない艦上偵察機

艦上偵察機彩雲

艦上偵察機として設計・製造された彩雲。

初飛行は1943年で、量産されるのは1944年6月以降です。

開発は九七式艦上攻撃機や陸軍の四式戦闘機・疾風を開発した中島飛行機が担当しました。

この艦上偵察機という飛行機、日本以外の他国ではあまり見られません。

偵察機自体はどこの国にもありましたが、空母から発艦するタイプの偵察機を専用で開発する、ということをしなかったのです。

なぜなら、空母には1機でも多くの戦闘機や爆撃機、雷撃機を搭載したいと考えていたので、偵察機を搭載する余裕がなかったのです。

もっぱら偵察任務は戦艦や巡洋艦に搭載されている水上偵察機か、艦上爆撃機、艦上攻撃機などが兼ねていました。

3人乗りなどの航空機に偵察要員を載せることで、十分偵察の役目が果たせたのです。

日本海軍でも九七式艦上攻撃機を偵察機にあてる等の対応をしていましたし、陸軍の九七式司令部偵察機の海軍向け仕様である九八式陸上偵察機などの陸上機、つまり陸上基地から発進するものが運用されてました。

しかし、太平洋戦争の開戦と同時に、日本は太平洋の各地に領土を広げていきました。

そのため、空母から発艦し、より広大な範囲を高速で偵察飛行できる機体が必要になったのです。

そこで艦上爆撃機彗星を「二式艦上偵察機」として運用しましたが、同時に本格的な艦上偵察機である「十七試艦上偵察機」、後の彩雲の試作を中島飛行機に命じました。

「我ニ追イツクグラマン無シ」

艦上偵察機彩雲

誉11型エンジンを搭載した初期の試作機は思った性能が引き出せず、エンジンを誉21型に変更。

口径の大きいプロペラを搭載し、プロペラの大きさに合わせて主脚も長くしました。

偵察機として速度も重視されたため、空気抵抗が少ない設計に。

胴体はエンジンカウリングの直径そのままの直線的な構成で、前面投影面積を減らしました。

面積を低くおさえた主翼には、空力的に優れた層流翼を採用。

さらにスラットやファウラーフラップを設置することで、揚力を得られる工夫をしています。

また機体表面に厚い外版を用いることで撓みを低減し、空気抵抗を減らしました。

主翼を畳まない事で構造が簡略化でき、主翼の80%にインテグラルタンクを採用。

増槽無しでも3000キロを飛行できたといわれています。

翼内を燃料で満たすインテグラルタンクですが、ともすれば一撃で燃料に引火し、火災が発生する危険がありました。

実際に一式陸攻はそれが原因で損耗率が高かったといわれています。

しかし彩雲は火災のリスクをもろともしない性能を持っていました。

それは速度です。

空気抵抗を最大限抑え、かつ武装も7.92mm機銃1挺と最小に。

偵察機なので爆装する必要もありません。

その結果、試験時には時速639キロという速度を出したのです。

これは実用化されている日本海軍機の中では最速。

ちなみに戦後にアメリカに接収され、良質なエンジンオイルで速度試験をした際には、時速694キロという数字をたたき出しています。

ただし、量産化された後の彩雲はおおむね時速610キロ前後に落ち着きます。

理由は、粗悪なエンジンオイル、低オクタン価のガソリン、そしてエンジン用特殊鋼の不足など。

当時の日本機なら必ず直面する問題です。

それでも他の日本海軍機に比べると速いです。

とある偵察任務の最中に、アメリカ軍の戦闘機「F6Fヘルキャット」に追撃されたことがありますが、見事に振り切ります。

その際に搭乗員が発した電文「我ニ追イツクグラマン無シ」は有名な話です。

「グラマン」と言ったのか「敵機」と言ったのか諸説ありますが、とにかく彩雲は当時のアメリカ海軍の最新鋭機でも追いつけなかったほど速かった、という証です。

空母に搭載されず

彩雲

1944年6月以降に量産が開始された彩雲でしたが、けっきょく、空母に搭載されての偵察活動を行うことはありませんでした。

太平洋戦争も後半にさしかかり、日本軍は幾度の海戦に敗戦。

制海権・制空権をアメリカ軍に奪われ、また航空機と優秀なパイロットを数多く損失していました。

防戦一方の状況下で、空母を運用しての大がかりな攻撃的作戦は行うことができなくなっていたのです。

彩雲は艦上機として最大限の性能で設計された機体でしたが、島々の陸上基地からの偵察任務を行うことになりました。

それでも航続距離と速度は一級品でしたので、メジュロ環礁やサイパン島、ウルシー環礁などへの状況偵察など、数々の偵察任務で重用されます。

特にマリアナ諸島東方哨戒、房総半島東南方哨戒で活躍。

この頃になると、連合国軍艦隊の所在を確認するための唯一の手段が、彩雲や特設監視艇による哨戒と強行偵察でした。

強行偵察とは、威力偵察とも呼ばれますが、コソコソと隠密に偵察するのではなく、部隊を展開して小規模な攻撃を行うことにより、敵情を知る偵察のことです。

1945年3月19日の松山上空での大空中戦では、紫電改を駆る第343海軍航空隊の一部隊として事前の敵情察知などで活躍しますが、一方で特攻隊の敵艦隊までの誘導や、特攻が成功したかどうかを確認する戦果確認業務も増え始めます。

そして、彩雲自体を特攻機にする作戦も発案されました。

そのために結成されたのが第723海軍航空隊です。

96機の彩雲に爆装をし、1945年8月中旬の作戦実施に向けて訓練を行いました。

ところが爆弾を搭載したことで時速500キロまで速度が落ち込み、運動性も大きく下がりました。

彩雲の良さをまったく発揮できなくなってしまったのです。

これでは昼間の特攻作戦は難しいとのことで、薄暮 特攻に切り替えて実施の機会をうかがっていましたが、その間も索敵任務に駆り出されたり、連日の空襲で訓練が思うように進まないなど、様々な出来事が重なります。

けっきょく特攻を実施する機会がないまま終戦を迎えました。

その実力がゆえに

彩雲

彩雲は、速度や航続距離だけでなく、上昇高度においても優れていました。

実用上昇高度は10740メートル。

アメリカ軍のB-29を迎撃できるくらいの高度です。

ということで、斜め上をむいた30ミリの機関砲を装備した改良型が登場します。

30ミリといえば大口径ですから、発射したときの反動もものすごいものがあります。

3~4発当たればB-29は空中分解すると期待され、少数機が制作されました。

しかし、高高度を飛行するのに不可欠な排気タービンの実用化が間に合わないなどの問題もあり、実践で活躍する機会はありませんでした。

実用化された海軍機の中で最速であった彩雲。

速度だけではなく、航続距離も、上昇能力も他の航空機をしのぐ力がありました。

もちろん武装をしない偵察機だからこそ、ここまでの能力を実装できたのかもしれません。

零戦や紫電改の影に隠れてはいますが、戦局を左右する偵察業務で成果を上げた機体であり、優秀機であったことは間違いないといえます。

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