日本海軍の駆逐艦で「ソロモンの黒豹」もしくは「ソロモンの鬼神」と呼ばれた駆逐艦があります。
その名は「綾波」。
なぜそのように呼ばれることになったのでしょうか?
太平洋戦争で日本海軍初の発砲
綾波は1930年、昭和5年4月30日に竣工しました。
吹雪型駆逐艦の11番艦として誕生しますが、当時は特型駆逐艦とも呼ばれていました。
特型駆逐艦というのは、ワシントン海軍軍縮条約により戦艦と空母の保有数が米英に対して不利な状況に置かれた中、制限のなかった補助艦艇の性能向上を目指して作られた駆逐艦のこと。
約1600トンの船体にありえないほどの武装を搭載し、「これに勝てる駆逐艦は世界にはない」と列強に衝撃を与えましたが、その後1934年の友鶴事件や1935年の第四艦隊事件で船体強度や復原性に問題があることが発覚。
海軍は全艦艇の復元性と強度検査を実施し、問題のある船は改修を余儀なくされました。
綾波も主砲の換装等重心低下の為の改修を受けています。
太平洋戦争時、綾波は第1艦隊第3水雷戦隊に所属。
1941年12月8日のマレー上陸作戦に参加します。
このときイギリス軍機から空襲を受け、綾波が応戦するのですが、これが太平洋戦争における日本海軍の初の発砲だったと言われています。
真珠湾攻撃の2時間前のことです。
その後も馬来部隊の一艦艇としてシンガポールやスマトラ島方面で活躍、6月のミッドウェー作戦にも参加しています。
8月以降のガダルカナル島の戦いでは「鼠輸送」と言われる、駆逐艦によるガダルカナル島への輸送任務に従事しました。
第三次ソロモン海戦
「重なりあって寄せる波」という意味でつけられた「綾波」という艦名。
やわらかいイメージを想起させるこの綾波が、なぜ「ソロモンの黒豹」「ソロモンの鬼神」という異名を持つことになったのか?
その由来となったのが「第三次ソロモン海戦」です。
1942年8月にガダルカナル島にアメリカ軍が上陸して以来、両軍はこの島を巡って陸海空で激しい戦いを繰り広げていました。
日本軍は幾度も陸軍師団を投入しますが、制空権をアメリカ軍にとられており、なかなか島を奪還できずにいました。
制空権を奪い返すため、はるか1000km以上離れたラバウルから零戦隊が出撃しましたが、飛行だけで往復8時間を擁し、おまけにガダルカナル島上空での滞空時間は30分に限られており、その中で戦闘を行わなければならなかったのです。
飛行場上空で待ち構えていればいいアメリカ軍機に比べ圧倒的に不利な状況での戦いが続き、パイロットは疲弊し、ひたすら消耗していきました。
この状況を打開するために行われたのが、アメリカ軍ヘンダーソン飛行場への砲撃です。
1942年10月13日から14日にかけて、戦艦金剛、榛名をはじめとする砲撃で飛行場に大ダメージを与えることに成功。
しかし全機能を破壊するには至らず、戦闘機用の第2飛行場の存在に気付かなかったこともあり、けっきょく制空権の奪取には至りませんでした。
そこで日本軍は再度、大口径を持つ戦艦での艦砲射撃を計画。
今度は戦艦霧島と比叡を投入しました。
しかし、暗号解読で日本軍の動きを察知したアメリカ軍も、新鋭戦艦ワシントン、サウスダコタを含む艦隊を、ガダルカナル沖に出撃させたのです。
11月12日の夜、日米の艦隊が激突。
第三次ソロモン海戦 第1夜戦が始まります。
この戦いでアメリカ軍は軽巡洋艦アトランタが大破し、後に沈没、駆逐艦5隻も失い、艦隊司令官のダニエル・キャラハン少将、次席指揮官スコット少将が戦死するなど大ダメージを被りました。
しかし、日本軍も戦艦比叡が航行不能となり、自沈に追い込まれるという大損害を受けました。
比叡は昭和天皇の御召艦であり、その存在は国民に広く知られ、親しまれていました。
それだけに国民の動揺が大きいと判断したのでしょうか。
国民には戦艦1隻が沈んだことは伝えられましたが、艦名は伏せられたまま報道されたのです。
2つの誤算
11月14日夜、第三次ソロモン海戦の第二夜戦。
戦艦霧島と重巡高雄、愛宕からなる射撃隊、軽巡長良以下駆逐艦6隻からなる直衛隊に加えて、軽巡川内、綾波、敷波、浦波の計4隻で前路警戒にあたる掃討隊が編成されていました。
掃討隊はサボ島近海の哨戒にあたるべく、川内、綾波がサボ島の西側へ、敷波、浦波がサボ島東側へと別れて哨戒を行ったと言われています。
しかし、当時綾波の艦長だった作間英邇中佐によると「この夜、川内はずっと離れていたと見えて、姿を見ていません」と回想しており、2隻ずつに分かれていたのか、綾波単艦だったのかは判然としていません。
ともかく、最初に敵艦隊を発見したのは、東側を哨戒中の浦波でした。
浦波は隊内電話で敵艦発見の報を伝え、川内と敷波が傍受。
敵艦の中には戦艦サウスダコタとワシントンが含まれており、2隻の戦艦相手に軽巡と駆逐艦では歯が立たないと悟った3隻は、急いで退避を始めます。
しかし、綾波には無線は届きませんでした。
サボ島が電波を遮断してしまっていたのです。
もちろん川内からも綾波に対して退避指示を送りましたが、これもまた同じ理由で、綾波に届くことはありませんでした。
そうとは知らず、サボ島の南を進んでいた綾波も敵艦隊を発見。
しかし、そこでまたもミスが発生します。
作間艦長によると「駆逐艦が4隻見え、その後ろにかすかだが大型艦が見えたが、これを重巡と勘違いした」とのこと。
月のない真っ暗な夜だったこともあり、判別ができなかったそうです。
つまり相手が重巡と駆逐艦だけなら十分戦えるし、おまけに川内ら3隻とも共同で攻撃できる、と判断したわけですが、実際には戦艦2隻を含む強力な艦隊であり、かつ味方の3隻はすでに撤退行動に入っており、結果的に綾波単艦で6隻を相手にすることになったのです。
作間艦長は戦艦が2隻いることに最初から気づいていれば、綾波も撤退していたかもしれない、と後に回想しています。
綾波が鬼神のごとく活躍
アメリカ艦隊は川内など3隻に対して砲撃を行いましたが、綾波が忍び寄っていることには気づきませんでした。
サボ島のおかげで、レーダーに写らなかったのです。
綾波の初弾は駆逐艦プレストンに命中。
次いで隊列先頭の駆逐艦ウォークにも命中させます。
レーダーなしの夜戦で初弾を命中させるのはまさに神業ですが、綾波はそれをやってのけました。
日本海軍が行っていた夜襲についての研究と、日頃の訓練の賜物です。
戦艦サウスダコタにも主砲弾が1発命中。
サウスダコタは電気系統が一時的に使えなくなりました。
この頃になってアメリカ艦隊はようやく綾波に反撃を開始。
集中砲火を浴びて魚雷発射管の1つが被弾し、装填されていた魚雷に引火する危険が生じました。
しかしひるまずに2番、3番発射管から魚雷を発射。
駆逐艦ウォーク、そしてベンハムに見事命中させ、それぞれ沈没に追い込みました。
初弾を浴びせたブレストンも火災がひどく、恰好の目印となり、その後、撃沈に成功。
戦艦2隻、駆逐艦4隻からなるアメリカ艦隊でしたが、綾波の活躍により駆逐艦3隻を喪失させ、さらに戦艦1隻の電気系統を一時的にマヒ状態に追い込みました。
この激戦により、綾波は「黒豹」「鬼神」と呼ばれるようになったわけです。
しかし、綾波自身も敵の猛烈な反撃を受け、その場で沈んでしまいました。
沈没時には海面に大量の浮遊物を投げ入れ、機雷に安全装置をつけて海底に投棄した上で総員に退艦命令を出しました。
おかげで溺死を防ぐことができたそうです。
海に飛び込んだ乗組員たちは、自分たちの戦果に興奮し、海面に漂いながら軍歌を歌ったそうです。
生存者がすべて味方艦に救助された直後、綾波は魚雷が誘爆し、沈没しました。
綾波は最後まで生き残ることはできませんでしたが、単艦で大きな戦果を挙げた駆逐艦として、乗組員をはじめ多くの人々の記憶に刻まれています。