最重要攻撃目標となった工作艦「明石」の能力に迫る

最重要攻撃目標となった工作艦「明石」の能力に迫る 艦艇

日本海軍で活躍したのは、潜水艦や戦艦だけではありません。

今回は裏方として損傷艦の修理に尽力した工作艦「明石」についてみていきましょう。

工作艦明石は移動する海軍工廠

世界初の工作艦メデューサ(米)
世界初の工作艦メデューサ(米)

工作艦とは、主に損傷した艦艇の修理を行う船のことです。

戦闘によって傷ついた船は港などのドックに入って修理を行うのですが、近くに修理可能な港がない場合は即座に修理ができず、いちいち規模の大きい港まで回航しなければなりません。

また修復が完了しても、前線に戻ってくるまでに時間がかかります。

そのような事態を解決するのが工作艦。

自ら移動しながら損傷艦の修理を行うことで、ドックへの回航の時間と労力を削減できるのです。

工作艦は海軍に所属していますが、軍艦ではなく「特務艦」に分類されます。

直接戦闘するのではなく、後方で支援を行なう「裏方のスタッフ」です。

もともと海軍には「朝日」という工作艦がありました。

これは日露戦争で活躍した「戦艦朝日」を改造したもので、工作艦としての機能はありましたが、旧式艦であるがゆえに能力は劣っていました。

当時海軍首脳は、アメリカ海軍の工作艦「メデューサ」と同等以上の能力を有することを目標としていましたが、工作艦のノウハウ自体がありませんでした。

そこでアメリカやイギリスが発表している工作艦に関する論文などを研究し、設計の参考にします。

それらの文献を元に設計された新造艦は1937年に起工、2年後の1939年7月31日に竣工します。

名前は兵庫県明石市の名所、明石の浦にちなみ「明石」と命名されました。

船形は平甲板型とし、上甲板の構造物をできるだけ減らすことで作業スペースを確保。

艦内には組立、焼入、鋳造、鍛冶及び鈑金、溶接、電機など用途に分かれた工場が17も設置されました。

中には本土の海軍工廠にすら配備されていないドイツ製の工作機械も。

全部で120台前後の最新機械が設置されましたが、これは連合艦隊の平時年間修理量35万工数の約40%を処理できる計算です。

艦自体の乗員が約300名に対し、艦内で働く工員は約2倍の434名。

工場で必要な電力をまかなうためにディーゼル発電機8基を搭載していましたが、これは戦艦「大和」の発電能力に匹敵します。

補給なしで3ヶ月航行でき、あらゆる修理が可能。

文字通り『移動する海軍工廠』でした。

最重要攻撃目標とされた工作艦明石

工作艦明石

明石は1941年12月6日、すなわち真珠湾攻撃の2日前にパラオ方面に進出。

工作艦朝日と共に連合艦隊の艦艇の修理に従事します。

しかし朝日は1942年5月26日、アメリカ潜水艦サーモンの雷撃で沈没。

明石、朝日以外にも数隻の特設工作艦は存在したものの、レベルの高い技術を擁する修理は明石でしか行えず、それゆえ多くの負担を背負うことになります。

6月上旬にはミッドウェー攻略部隊支援のためトラック島に。

しかしミッドウェー海戦に大敗し、攻略作戦は中止。

明石の主任務はなくなってしまいますが、それでも大破した重巡最上に仮艦首を装着する修理を行うなど、4~5隻の艦艇を修理。

連合艦隊の戦力維持に貢献しました。

その後一度は呉に戻った明石でしたが、再びトラック島に移動。

その後しばらくはトラック島を拠点とし、損傷艦の修理・工作を担当します。

明石が担当した艦船は戦艦大和、空母大鷹、重巡青葉、軽巡阿賀野、神通、駆逐艦春雨、秋月など300隻以上にのぼると言われています。

海戦が起こるたびに損傷艦が増え、明石の左右には常に数隻の船が横づけされ、修理を受けているという光景が日常のものとなりました。

また明石の第四工作部では3000トンの浮きドックを所有しており、並行して小型艦の修理も行うことができました。

これらの修理能力の高さから、明石はアメリカ海軍から「最重要攻撃目標」としてマークされるようになります。

戦闘艦より補助艦を優先して攻撃するという姿勢は当時の日本にはなく、それゆえ補助艦を優先して防御するという意識もありませんでした。

これが後に災いをもたらすことになるのです。

トラック島空襲

トラック島の工作艦明石

1942年9月9日の朝、駆逐艦秋風がトラック泊地に接近する空母雲鷹をアメリカ軍潜水艦と誤認して対潜警報を発令してしまいます。

これにより戦艦大和以下トラック島に停泊していた艦艇が一時別の泊地へ避難するという大騒動に発展。

結局は見間違いであり、攻撃されることはありませんでしたが、この騒動の中にあっても明石は3隻の損傷艦を横付けにして修理を続けていたそうです。

しかし、そのトラック島にも本格的な敵の侵攻が迫っていました。

1944年2月17日から18日にかけて、アメリカ海軍第38任務部隊がトラック島を空襲。

大規模な空襲であり、23日に起こったマリアナ諸島空襲と合わせて日本海軍は多くの艦艇・航空機を失うことになりました。

明石も空襲を受け爆弾1発が命中。

しかし不発弾のため損傷は軽微でした。

ただし、その際に空襲で撃沈された駆逐艦追風に明石の乗務員が乗り合わせており、数十名が戦死してしまいます。

なんとか難を逃れた明石は、他の艦と共にトラック島を脱出。

空襲以前にトラック島から退避していた連合艦隊の主力艦艇と合流し、パラオへ避難しました。

明石撃沈

明石撃沈

トラック島空襲から約1ヶ月後の1944年3月30日。

今度はパラオに敵の第58任務部隊が来襲。

パラオ大空襲を敢行します。

この時も武蔵をはじめとする主要戦闘艦艇は事前にパラオから退避しており、島には明石をはじめとして特設掃海艇や駆潜艇などの小艦艇や商船が停泊するのみでした。

日本海軍は工作艦などの補助艦より、戦闘艦艇を優先して退避させたのです。

その結果、残された艦はことごとく撃沈されました。

明石も今回は難を逃れることができず、多数の爆弾が命中し、炎上。

手の施しようがないと判断され、ついに放棄されます。

明石が沈没したことで、海軍は特設測量艦であった白沙を特設工作艦に改装。

シンガポールに配備され、明石の任務を引き継がせるのですが、修理・工作能力は明らかに明石に劣りました。

このため、南方戦域で損傷した艦の修理に関しては、設備の整った本土の海軍工廠で修理せざるをえなくなりました。

これは往復の時間、燃料も含めて非常に大きなロスにつながり、かつ駆逐艦などの二次被害を招きました。

大戦後半は米潜水艦が日本近海に侵入しており、安全に日本に戻れる航路なんてありません。

損傷艦の本土への回航時、そして修理から復帰して前線に戻る際には必ず駆逐艦などの護衛が必要となったのですが、その護衛中に米潜水艦に撃沈されるという事態が多発しました。

明石を喪失した影響は後々にまで響くことになったのです。

日本では陸海軍を問わず、兵站や補修など、いわゆる直接戦闘とは関係のない裏方が軽視された傾向がありますが、明石もその最たる例といえます。

広大な太平洋を戦域とする日本海軍において、明石のような優秀な工作艦をもっと投入していれば、もう少し違った結果になったのかもしれません。

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