日本海軍の潜水艦の中でも特異な大きさと攻撃能力を持つ「伊400型潜水艦」。
戦時中その存在はアメリカ軍には知られていませんでした。
いったいどのような目的で造られたのでしょうか?
艦隊決戦における漸減作戦の一翼
潜水艦の歴史は古く、1864年の南北戦争時にアメリカが導入した潜水艇がはじめと言われています。
海上からは姿が見えず、かつ船の中で防御力の低い喫水線下にダメージを与えることができる潜水艦。
各国はその存在に脅威を感じ、研究費をつぎこみました。
日本では日露戦争中の1904年にアメリカから5隻の潜水艇を購入したのが最初でしたが、組み立てに1年ほどかかり、日露戦争には間に合いませんでした。
第一次世界大戦ではドイツのUボートがイギリス商船を狙って攻撃。
大ダメージを与え、イギリスが戦争継続困難になる手前まで追い込みます。
しかし結局第一次世界大戦はドイツが破れることに。
戦勝国である日本は戦利品として7隻のUボートを獲得するのです。
これら外国の技術が基礎となり、日本の潜水艦は発達してゆきます。
昭和初期、日本海軍は潜水艦の用法を「敵艦隊を監視し、出撃した際には追撃して動向を探り、攻撃を反復して漸減する」と定めます。
ドイツが行った通商破壊ではなく、軍艦に対する攻撃のために用いると決めたのです。
漸減作戦を実行するには、長大な航続力とある程度の速度が必要になります。
そこで海軍では水上高速力を重視した海大型と、航続力を重視した巡潜型の2系統を建造。
また用途に応じて甲・乙・丙の3タイプを計画します。
甲型は旗艦として指揮・通信設備を充実させ、小型水上偵察機を搭載。
乙型は偵察に特化し、甲型同様水偵を搭載。
丙型は水偵を搭載せず、その代わり魚雷数を増やすことで攻撃に特化。
これらの潜水艦隊で漸減作戦を実施しようとしていたのです。
巨大「潜水空母」構想
しかし、いざ太平洋戦争が始まってみると、艦隊決戦の機会はほとんどありませんでした。
空母と航空機による戦闘が主流となったためです。
結局、潜水艦で戦艦を攻撃する、という構想は実現しませんでしたが、1942年1月、新たな潜水艦の使い方が提案されます。
水上攻撃機2機を搭載し、航続距離33000カイリ、連続行動可能期間4ヶ月以上の潜水艦を造るというものです。
「特型潜水艦」と呼ばれるこの潜水艦は、山本五十六長官の案であるとする説が有力です。
公刊戦史には「伊400型の建造構想は山本長官であり、米東海岸の作戦を企図していた」と、山本長官の信頼を得ていた参謀から聞かされたという元軍令部員の聞き取り内容が記述されています。
アメリカでの留学経験もある山本五十六。
アメリカの国民性を誰よりも理解していました。
だからこそ、ワシントンDCをはじめとする主要都市に直接空襲を行うことで国民は動揺し、戦意を喪失すると考えていたのです。
潜水艦に攻撃機を搭載するという「潜水空母」構想を実現したのは日本だけでした。
しかも航続距離が33000カイリというと、約61000キロに相当します。
それでいて連続航行可能期間が4ヶ月以上。
これは、無補給で地球を1周半回れる能力があるということです。
長大な航続力を得るため、必然的に船体を大きくする必要がありました。
当時の潜水艦の基準排水量が平均約2000トン、全長100メートルなのに対し、伊400型は3530トン、全長は122メートルもの巨体となったのです。
また船体上部には攻撃機の格納筒を設置します。
その重さに耐えうるため、通常の潜水艦とは異なり、内殻と外殻を組み合わせた二重構造にします。
大きく安定した艦になったことで、通常の潜水艦に比べ居心地は良かったようです。
これほど大きな潜水艦にも関わらず、たった1分で急速潜航が可能でした。
まさに日本の技術力の粋を集めた潜水艦といえます。
特殊攻撃機「晴嵐」とは?
1944年12月に、1番艦である「伊400」が竣工します。
伊400型は合計18隻が建造される予定でしたが、1942年6月のミッドウェー海戦以降に、その計画が見直されます。
戦局の悪化により潜水艦の被害が激増し、特型潜水艦より、通常の潜水艦のほうが必要になったからです。
結局、特型潜水艦の建造は18隻から10隻に、その後さらに起工していた5隻のみの建造に。
終戦までに完成したのは伊400、伊401、伊402の3隻のみでした。
数が減らされたことで、1隻に搭載する攻撃機の数は2機から3機に増やされました。
この攻撃機は本来は艦爆である「彗星」を搭載する計画でしたが、実用的ではなかったため、伊400型に合わせて開発されることになります。
その名は特殊攻撃機「晴嵐」。
13mm機銃を一挺装備し、800kg爆弾1発か45cm魚雷1発を搭載。
更には急降下爆撃も可能という攻撃機です。
水上機であり、フロートを装着する大型の攻撃機となりましたが、主翼を90度回転させて後ろに折り畳み、水平尾翼や垂直尾翼さえも折りたためるように設計。
さらに格納ハッチにくぼみをつける等の工夫をすることで、狭い格納筒にギリギリ入るサイズとなりました。
付近に空母もいないのに、いきなり攻撃機の空襲にさらされる。
敵は何事か?と混乱に陥ります。
同時に日本軍に対して「得体の知れない最新兵器を開発しているのでは?」という疑念を抱かせます。
これこそが伊400型の真の力です。
単に一艦艇を攻撃する戦術的な作戦だけではなく、戦略的任務の実行を可能にする潜水艦でした。
伊400は戦後の潜水艦に影響を与えた?
当初はアメリカ東海岸の攻撃を企図して建造された伊400型でしたが、1945年5月のドイツ敗戦により、状況が一変。
これまで大西洋に展開していたイギリス・アメリカの艦隊が太平洋に進出してくる可能性が出てきました。
そこで目標をアメリカ東海岸ではなく、パナマ運河に変更します。
パナマ運河は、大西洋と太平洋を行き来する交通の要所です。
この運河を破壊することにより、敵艦隊の太平洋進出を阻み、かつ輸送をも困難にできる作戦でした。
敵に見つからず長距離航行ができ、かつ攻撃機を保有する伊400型だからこそできる大胆な作戦。
しかしこれも立ち消えになります。
1944年12月に発生した東南海地震に加え、本土空襲で生産元であった愛知航空機の工場が破壊されたため、晴嵐の完成が遅れたからです。
完成する頃には敵艦隊は太平洋への進出を果たしており、パナマ運河を攻撃しても意味がない、ということになりました。
最後に立てられた作戦は、晴嵐によるウルシー泊地への特攻作戦でした。
1945年8月17日3時の攻撃開始のため、伊400と伊401はそれぞれ7月20日、21日に大湊から出撃。
別々のコースをたどり、会合地点を目指します。
しかしその途中、8月15日に艦内で玉音放送を聞くのです。
このまま攻撃か?
それとも帰投するか?
艦内で激論が交わされた挙句、両艦とも艦長判断で帰投することを決定します。
その後、ともに呉への帰投中にアメリカの艦艇に拿捕され、武装解除。
真珠湾に回航されますが、初めて伊400型を見たアメリカ兵たちは、その大きさに驚いたという話もあります。
2艦はそのままアメリカ軍で運用することも検討されました。
それぐらい技術的に優れていたのです。
しかしソ連から検分の要請があり、ソ連に伊400型の情報が伝わることを恐れた上層部は2艦とも海没処分とし、ハワイ近海に沈めてしまいます。
3隻目の伊402は1945年7月24日にようやく完成。
ウルシー泊地への特攻作戦には参加せず、出撃することなく終戦を迎えます。
他の2艦同様、アメリカ軍の実験標的艦として長崎県の五島列島の北方で沈められました。
戦中の活躍の機会がほとんどなかった伊400型。
しかし、この3隻の存在は、戦後の潜水艦による戦略思想に大きく影響を与えます。
今でこそ潜水艦から巡航ミサイルを発射するのが当たり前ですが、その発想は実は伊400型の攻撃機搭載のアイデアをもとにしているという説もあります。
当初の計画通り、伊400型が18隻建造され、もっと早い段階で投入されていたら、戦局は大きく変わっていたかもしれません。