B29撃墜王を輩出した戦闘機「屠龍」!開発経緯や運用実績を解説!

B29撃墜王を輩出した戦闘機「屠龍」!開発経緯や運用実績を解説! 航空機

当初の開発目的とは異なる運用で活躍を見せた二式複座戦闘機、通称「屠龍

いったいどんな戦闘機だったのでしょうか?

開発経緯や運用実績を見ていきましょう。

双発戦闘機の開発を

屠龍丙型丁装備キ45改丙飛行第53戦隊.

正式な名称は「二式複座戦闘機」。

屠龍というのは、愛称です。

「竜を屠る」という意味の言葉なのですが、制式採用された時からこの愛称があったわけではありません。

太平洋戦争末期、北九州を防衛する防空隊の活躍が日本の一般市民に知られた結果、山口県の小月の陸軍飛行第4戦隊と芦屋の飛行第13戦隊を「屠龍部隊」と呼ぶようになり、この名が定着しました。

ここでいう「龍」は、B29のこと。

 B-29
B-29

要するにB29を駆逐する飛行戦隊で使用されていた戦闘機なのです。

しかし、開発当初はそのような運用を行う予定ではありませんでした。

1930年代半ばから1940年頃、欧米では「双発万能戦闘機」の開発競争が盛んでした。

Bf110
独双発万能戦闘機[メッサーシュミットBf110

単発機より航続距離が長いので、目的地まで爆撃機に随伴して護衛を行うことができ、さらにエンジンが2つあることで多くの兵装・設備を搭載しても高速で飛行できました。

一機種で戦闘・爆撃・偵察・指揮など何役もこなせる効率的な機種として、各国が開発に力を入れていたのです。

日本もこの流れに乗り、1937年に陸軍が川崎に対してキ38の開発を命じます。

しかしキ38はモックアップの段階で開発を終了。

その後「実物の試作機が欲しい」ということで続けてキ45の開発を命じます。

1939年1月に試作1号機が完成

しかし装備されたハ20乙エンジンは馬力不足なうえに故障が続出しました。

テスト飛行の結果も軍の要求を満たせるものではなく、キ45は結局不採用に。

しかし双発複座戦闘機を何としても完成させたい陸軍は、川崎にさらなる開発を要求。

エンジンを実績のあるハ25に換装することにし、設計主務者を後に三式戦や五式戦の設計にも携わった土井武夫技師に代えて作業に着手します。

ハ25装備の機体は「キ45第一次性能向上機」と呼ばれ、テスト飛行で好成績をおさめますが、キ45の時から問題になっていたナセルストール、つまりエンジンナセルという覆いの部分の不具合が原因で失速してしまう現象は未解決のままで、実用機としては不採用になってしまいました。

二式複座戦闘機「屠龍」の誕生

屠龍甲型,キ45改甲

それでも諦めない陸軍は、1940年10月、「第二次性能向上機」ということでエンジンに より強力なハ102を採用した機体の開発を指示します。

この段階で川崎はキ45に見切りをつけており、機体は1940年5月に完成したばかりの九九式双軽爆撃機の基本設計を流用し、全くの新設計で開発に挑みます。

問題になっていたナセルストールも、ナセル自体の取り付け位置を主翼中心よりもさらに下に配置するなどして見事解決。

キ45改」の名称が与えられたこの機体は、1941年9月に1号機が完成

1942年、皇紀2602年2月に二式複座戦闘機としてようやく制式採用されました。

制式採用された二式複座戦闘機「屠龍」ですが、当初は初期の目的通り爆撃機の護衛という遠距離戦闘機的な運用がなされます。

しかし、結果は思わしくありませんでした

独立飛行第84中隊に配備された屠龍は、1942年6月、爆撃隊の護衛として中国の桂林攻撃に参加。

P-40
P-40

アメリカ義勇航空隊「フライング・タイガース」のP-40戦闘機と空中戦になりましたが、屠龍は惨敗を喫します。

同年9月、ハノイにおいてもP-40E キティホークと戦って敗れました。

航続距離を重視して大型の機体になった屠龍でしたが、単座の軽快な戦闘機とはまともに戦うことができず、屠龍を装備した各部隊からはあまり高い評価は得られませんでした。

せっかく最新の屠龍を配備されたにも関わらず、消耗した時の補充には屠龍ではなく一式戦闘機「隼」や二式戦闘機「鍾馗」を要求する部隊もあったようです。

制空戦闘機以外の目的で屠龍を運用

屠龍丁型

制空戦闘機としては役に立たなかった屠龍ですが、別の任務においてその真価を発揮します。

ひとつは対艦・対地攻撃機としての活躍

胴体下部に20ミリ機関砲1門を装備した「キ45改 丙型」という機種がありました。

この20ミリ砲は携行弾数は少なかったものの、戦車や艦船の装甲を破壊する力を持っており、この機体を受領した一部の部隊では「二式双発襲撃機」などと呼ばれ、重宝したようです。

屠龍が最も活躍したのは、迎撃戦闘機として運用されたケースです。

その頃海軍では同じく双発戦闘機であった「月光」に斜め銃を取り付けて大型爆撃機に対する迎撃戦闘機としての運用が実験されていました。

この月光も、当初は屠龍とほぼ同じ目的で開発されましたが、思ったような成果が得られず、最終的には夜間戦闘機として爆撃機の迎撃に使われた機体です。

仲の悪かった陸軍と海軍ですが、海軍の斜め銃を見習って、屠龍にも斜め銃を装備し、運用することに。

この機体はキ45改 丁型と呼ばれます。

ただし陸軍では「斜め銃」という言葉は使わず「上向き砲」と呼んでいたそうです。

多くのエースパイロットを輩出した屠龍

二式複座戦闘機屠龍

1944年6月、アメリカ軍はB29による本土空襲を開始します。

高高度を飛ぶB29に対し、従来の日本機では捕捉することが難しく、迎撃は困難を極めました。

しかし、この難局において屠龍は活躍します。

特に山口県下関市小月飛行場に駐屯する飛行第4戦隊は、八幡製鉄所を防空地区としていたこともあり、万全の体制で迎撃態勢を整えていました。

西部軍管区 司令部直轄の来襲機情報の早期伝達をはじめ、無線電話の積極的な活用、高射砲や照空灯など地上部隊との緊密な協同など。

これらの体制に加えて錬度の高いパイロットで構成された第4戦隊は、対B29の本土防空部隊としては日本一の精鋭部隊とも称されたそうです。

中でも1944年6月15日から迎撃戦に参加し、終戦までの間に通算26機のB29を撃墜、「最多B29撃墜王」となった樫出勇大尉を筆頭に、多くのエース・パイロットを輩出し、終戦までの間、連日出撃し、戦果を挙げました。

屠龍キ45改

彼らは皆、屠龍に乗り、照空灯がB29を照らしだすや否や機体の下に潜り込んで、上向き砲を乱射。

撃墜・撃破を繰り返しました。

こういったエースクラスのパイロットはB29を撃墜できましたが、そうでないパイロットにとってはやはりB29は難敵でした。

高性能のB29を撃墜するには、屠龍ではもともと性能が不足していたのです。

レーダーを装備しておらず、地上からの誘導と目視に頼らざるをえなかったため、勘が良くないかぎり撃墜は至難の業でした。

通常の攻撃ではダメージを与えられないため、空対空特攻隊である震天隊・回天隊が一時編成されたこともありました。

飛行しているB29に体当たりをくらわすのです。

昼夜問わずB29迎撃に出撃した屠龍でしたが、敵の護衛戦闘機が現れるようになると、活躍の機会が減っていきました。

B29だけの部隊で来襲する際には問題ありませんでしたが、1945年4月に硫黄島が陥落後、アメリカ軍はB29の編隊にP51ムスタングを護衛につけるように。

P-51
P-51

屠龍は迎撃はおろか、昼間の出撃さえもままならなくなったのです。

当初の開発計画通りの運用には至らなかった屠龍。

ですが本土防空戦という国土を守る大切な役割で活躍を見せました。

終戦まで使われ続け、約1700機が生産されたと言われています。

日本の戦闘機といえば零戦や隼などが有名ですが、屠龍のような拠点防衛用の戦闘機が残した功績も、語り継がれるべきではないでしょうか。

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