日本海軍の戦艦「伊勢」。
戦時中に航空戦艦に改造され、新たなスタートを切ったものの、その後航空戦艦として活躍することはありませんでした。
なぜ活躍できなかったのか?
今回は戦艦伊勢の生涯を追います。
伊勢の誕生
伊勢の竣工は、1917年(大正6年)です。
当時は扶桑、山城に次ぐ扶桑型の3番艦として建造が計画されていましたが、扶桑型の装甲が弱いなどの弱点を改良し、新たに伊勢型として再設計されることになりました。
36cm連装砲を6基搭載するなど、ようやく世界基準に追いついた戦艦が日本にも登場することに。起工から約2年で伊勢は完成。
扶桑、山城、そして姉妹艦の日向と共に、36cm砲を搭載したド級戦艦として注目を浴びましたが、同時期に世界では38cmの口径を持つ戦艦が登場したり、他の戦艦に比べて速力が遅かったりと、完成当初から若干の出遅れ感はありました。
艦名の由来は三重県の旧国名です。
伊勢神宮の伊勢です。このように戦艦の名前には、日本の旧国名がつけられていました。ただし「加賀」のように、旧国名がつけられているにも関わらず、空母として竣工したものもあります。
これはワシントン軍縮条約の影響によるもので、各国で戦艦の保有数を制限されたがゆえに、戦艦として登場させることができなかったからです。
空母の保有数には余裕がありましたので、建造中の戦艦加賀を、急遽空母に作り替えたというわけです。
1941年の太平洋戦争開戦時には、伊勢は艦齢25年という老朽艦の部類になっていましたが、幾度かの改装を経て近代化を図り、戦艦としての総合能力では太平洋戦争開戦時でも世界標準を保っていました。
長門型戦艦に次ぐ有力艦になったという見方もあるほどです。
活躍する機会に恵まれなかった伊勢
1941年12月8日の真珠湾攻撃の際、伊勢は第一艦隊第二戦隊に所属。
しかしハワイ方面には進出せず、真珠湾攻撃を担当した南雲機動部隊の損傷艦をサポートするために日本近海に出撃しました。
しかし南雲機動部隊の損傷はゼロ。
無傷で帰ってきたので、伊勢も早々と瀬戸内海に引き上げます。
次の出撃は1942年2月。
新たに波長1.5 mの試作電探、つまりレーダーを装備してアリューシャン方面に出撃しますが、敵と交戦することはありませんでした。
伊勢も他の戦艦と同じように、あまり活躍の機会はなかったのです。
大艦巨砲主義という時代の流れに乗って登場した日本の戦艦たち。
武装こそ他の艦を圧倒するものでしたが、巡洋艦や空母と比べて速力が遅く、また多くの乗員を必要とし、燃費も悪い。
特に太平洋戦争が始まって以降は航空戦が主流となったので、戦艦の使いどころが難しかったのです。
世界初の航空戦艦伊勢の誕生
1942年6月5日のミッドウェー海戦により、日本は赤城、加賀、蒼龍、飛龍という大型空母4隻を失いました。
航空機こそが主戦力という認識が広まりつつあった時期の空母4隻の喪失は、日本海軍にとって大きな痛手となりました。
そこで海軍首脳は、旧式の扶桑型戦艦と伊勢型戦艦の空母への改造を企図します。
ちょうどその頃、伊勢の姉妹艦の日向が爆発事故を起こし、5番砲塔を失っていました。
修理するには手間もかかるので、この機会にいっそのこと改装してしまおう、ということで、伊勢と日向の後ろ半分を空母に改装することに決めたのです。
全面改装をしなかった理由については諸説ありますが、ひとつは工期の問題。
一刻も早く空母が欲しいときに、改装工事が長期化してしまっては意味がありません。
また長期化することにより、造船所を占拠してしまうことになります。そうなれば他の艦艇の建造ができなくなってしまいます。
そういった理由から、全面ではなく半分だけ改装することになったようです。
そういう致し方ない事情もありましたが、伊勢と日向は、「戦艦と空母のいいところを兼ね備えた万能艦」として期待されました。
単純に考えれば、1隻で戦艦なみの砲撃力と、空母の航空戦力を兼ね備えた船です。
何隻にも連なって行動する機動部隊が、航空戦艦数隻で事足りるわけですから、有用性が高いと判断されたのもうなずけます。
伊勢は日向とともに船体後部の第5、第6砲塔が撤去され、格納庫と飛行甲板が設置されました。
前部左右にカタパルト、後部にエレベーターが設けられ、甲板上には運搬軌条や旋回盤が配置されました。
こうして約9か月の期間を要し、伊勢は1943年9月に航空戦艦として再デビューを果たします。
航空機を搭載しない航空戦艦伊勢
航空戦艦伊勢としての最初の任務は、空撃作戦ではなく、輸送でした。
陸軍兵力と物資、さらには他の戦艦の砲弾を搭載し、トラック島へ向かいます。
作戦は多少の犠牲を払ったものの成功。
その後、呉に帰投し、練習艦として待機の日々を送ります。
せっかく航空戦艦になったのに、なぜ航空機を搭載しないのか?
搭載しないのではなく、搭載する飛行機がなかったのです。
この時期はアメリカ軍の反撃が一斉に始まった時であり、各方面で航空機の補充が急務になっていました。
新鋭機は攻略・維持が難しい前線に。
旧式機もベテランが搭乗することで十分な戦力になりましたから、結局前線に送られます。
そのような理由で、伊勢にはなかなか航空機が回ってこなかったのです。
しかし1944年5月に伊勢と日向はようやく「第四航空戦隊」として、航空部隊の名を拝命します。
両艦には第六三四海軍航空隊を搭載することが決まりました。
伊勢には水上偵察機の瑞雲14機、艦上爆撃機の彗星8機が配属に。
航空戦艦といっても、実際に搭載できる航空機は20機程度です。
その後カタパルトによる射出訓練を行うなど、いよいよ航空部隊らしくなってきたものの、1944年10月に生起した台湾沖航空戦に第六三四海軍航空隊の投入が決定。
またしても伊勢には航空機がない状態となりました。
「戦艦と空母のいいところを備えた万能艦」として期待された伊勢ですが、実際には航空機を搭載する機会はほとんどありませんでした。
しかし、航空機を搭載していたとしても、十分な活躍ができたのかは疑問が残ります。
たとえば主砲を発射したときにはすさまじい衝撃が艦全体に響き渡るのですが、航空機はその作りがデリケートなため、衝撃により損傷する可能性があります。
砲撃中に発艦・着艦するのも困難です。
また砲撃戦を行うということは、相手からの砲撃も飛んでくるということです。
それらが航空機の格納庫や弾薬庫、航空燃料のタンクに直撃すれば、引火して大爆発を起こす可能性があります。
空母は遠隔地から敵の艦船を攻撃できるのが最大の利点であるにも関わらず、砲撃戦をすることで敵と近距離の位置に航空機をさらすことになります。
これでは空母の意味がなくなるのです。
今でこそこのような考察がなされていますが、当時はそんな意見は表に出ず、期待のほうが上回っていました。
最終的に航空機を運用しての作戦は皆無だったので、航空戦艦としての性能については検証できませんでした。
レイテ沖海戦での伊勢の奮戦
1944年10月、アメリカ軍はいよいよフィリピンに迫ります。
ここを落とされれば、日本の未来はない。
絶対に守らなければならない戦いにおいて、日本軍は捷一号作戦を発動します。
基地航空部隊を中心とした戦力でアメリカ軍を退け、最終防衛ラインを死守する作戦です。
この戦いに伊勢も参戦しますが、やはり戦力としての航空機は搭載していませんでした。
伊勢は他の艦とともに「囮艦隊」として米軍のハルゼー提督率いる機動部隊を北方へ誘導。
機動部隊がいなくなった湾周辺に味方の遊撃部隊を突入させ、敵の上陸部隊を殲滅するという手筈でした。
伊勢を含む小沢艦隊はこの囮の役割を見事達成。
ハルゼー艦隊をフィリピン北方につりあげることに成功したのです。
その後、結局作戦は失敗に終わってしまうのですが、伊勢は囮として、敵の攻撃を引き付けることになります。
敵航空機の攻撃はすさまじく、最初は空母が狙われ、その次に伊勢・日向が狙われました。
しかし戦隊司令官松田少将の発案した弾幕射撃が功を奏し、敵機を多数撃墜します。
また戦闘中に巡航速度で航行し、敵の急降下爆撃機が爆撃体制に入ると同時にスピードを上げ、急転舵するという手法を導入。
いったん急降下に入った爆撃機は進路の変更がきかず、まっすぐ目標に突っ込むしかないのですが、伊勢が急転舵することで視界から消えてしまうのです。
結果、狙いが外れたまま爆弾を投下し、上昇するしかありませんでした。
さらに噴進砲を巧みに利用。
いわゆるロケット砲です。
上空で自動的にさく裂し、1発につき60個の焼夷弾をばらまきます。
戦艦の主砲の弾として、砲弾の中に焼夷弾が詰まっている「三式弾」が利用されていましたが、そのロケット砲版です。
伊勢の中瀬艦長いわく「突っ込んでくる敵機の鼻先でこれをさく裂させたら、敵機が右に左に逃げていくのが見えて痛快だった」とのこと。
伊勢は噴進砲などの武器と巧みな操艦で、激戦の中生き残りました。
航空戦艦伊勢、最後の主砲発射
その後シンガポールに係留されていた伊勢ですが、水上機の射出機を取り外され、事実上航空戦艦としての役目を終えます。
そして1945年2月に行われた北号作戦に参加。
これはフィリピンをアメリカに奪われた後、東南アジアに残っている日本軍の残存艦艇を日本に脱出させるための作戦です。
脱出する際に重油などの貴重な資源を本国に持ち帰ることも計画されました。
物資の輸送と残存艦を日本に持ち帰るという消極的な作戦ですが、以前同じ航路をたどった輸送部隊が壊滅的な打撃を受けており、この作戦も成功する確率はかなり低かったようです。
しかし、奇跡的に作戦は成功し、伊勢は呉に戻ることができました。
ちなみにこの作戦が、日本海軍が実施した中で最後に成功した作戦となりました。
北号作戦終了後、燃料の尽きた伊勢は呉にて特殊警備艦に。
長門などと同じく、浮き砲台として鎮座することになります。
終戦直前の7月24日。
米軍機が多数呉に来襲します。
いわゆる「呉軍港空襲」です。
この空襲により、伊勢は艦橋に直撃弾を受けます。
牟田口艦長はじめ、伊勢の主だった指揮官20名ほどが亡くなりました。
さらに相当な量の浸水もありました。
ドッグに曳航するために作業を行っていた7月28日に再度空襲に会い、直撃弾11発を受けてついに大破。
伊勢はそのまま着底してしまいます。
この戦闘で伊勢は砲台として奮戦しましたが、その時に発射した主砲が、日本海軍戦艦最後の主砲発射となったのです。
終戦後、伊勢は引き上げられ、一時期は住宅として利用していた人もいました。
当時のニュースで「素晴らしい鋼鉄の家」と紹介され、話題になっています。
その後はスクラップにされ、その生涯を閉じました。
航空戦艦として生まれ変わりながらも、実際には航空戦艦としての役割を果たすことがなかった戦艦伊勢。
実際にうまく運用できたかどうかはわかりませんが、航空機を搭載して出撃する姿が見れなかったのは残念です。