高速を活かして太平洋を駆け巡った戦艦「金剛」。
日本海軍の戦艦の中で最も活躍した船といっても過言ではありません。
今回は金剛の誕生の経緯や活躍を見ていきます。
日本の造船技術向上に貢献した金剛
金剛の艦名は、奈良県と大阪府の境にある金剛山からとられました。
日本の戦艦といえば、大和や武蔵のように、旧国名が使われるのが一般的。
しかし金剛は山の名前です。
その理由は、金剛が戦艦としてではなく、巡洋戦艦として建造されたからです。
巡洋戦艦とは、巡洋艦の速力と戦艦の攻撃力を兼ね備えた船のこと。
太平洋戦争中の日本には存在しませんでしたが、明治から大正の頃には各国で巡洋戦艦の建造が盛んでした。
日露戦争終結2年後の1907年に金剛の建造が決定されます。
当初は巡洋艦に装甲を強化した「装甲巡洋艦」として建造されるはずだった金剛。
しかし1906年、イギリスの戦艦「ドレッドノート」の登場により、その計画は見直されることになります。
ドレッドノートの大きさと攻撃力が、従来の戦艦とは比べ物にならないぐらい圧倒的だったからです。
当時国内では薩摩型戦艦を2隻建造中でしたが、建造中にも関わらず、もはや旧式戦艦と言わざるをえなくなるぐらいでした。
そんな状況もあり、金剛は装甲巡洋艦ではなく、巡洋戦艦として建造されることに。
「ドレッドノートと同じ規模」ということで「ド級」、さらには「ドレッドノートを超える規模」ということで「超ド級」という言葉が生まれます。
現代でも使う「超ド級」という言葉の「ド」は、ドレッドノートの「ド」であり、明治時代から使われていた言葉ということです。
国内でも軍艦の建造を行っていた日本ですが、金剛は設計から建造まで、イギリスのヴィッカース社に依頼します。
以前から日本の戦艦はイギリスに発注することが多く、日露戦争の際、連合艦隊旗艦として活躍した戦艦三笠もそうでした。
さらにヴィッカース社に対して「金剛型の2番艦、3番艦は金剛の設計技術をもとに日本で建造する」という契約をとりつけました。
簡単に言うと、日本に造船技術を提供しろということです。
通常なら軍事機密にあたる内容ですし、国防上の観点から他国に技術を提供するようなことはしません。
しかし当時の日本とイギリスは非常に良好な関係にあったこともあり、契約にこぎつけることができました。
もっともヴィッカース社と日本海軍高官の間で贈賄があったという事実が後に発覚するのですが。
経緯はどうあれ、金剛の技術を提供されたことで、日本の造船技術は飛躍的に向上しました。
金剛の誕生
進水式は1912年にイギリスにて行われました。
外国では艦首に吊るしたシャンパンボトルを割るのが通例でしたが、日本側の要望で日本式に鳩の入ったくす玉を用いたところ、イギリス人が珍しがって喜んだそうです。
その後1913年に竣工。
大型艦であったためスエズ運河を通過することができず、喜望峰を回るルートで日本に回航されました。
竣工時の金剛の速力は27.5ノット。
その後近代化を図るため、2度にわたる改装を行います。
1回目は1928年10月。
ボイラーなど船の基幹部分も含めた大改装で、3年かかります。
この時に艦の幅が広くなり、水中抵抗と排水量が増加したため速力が26ノットまで低下。
この第一次改装のタイミングで金剛は巡洋戦艦から戦艦に艦種変更されました。
1935年に第二次改装。
約1年間かけての改装で、機関出力が上昇。
速力が30.3ノットまでアップし、高速戦艦として生まれ変わります。
同型艦は金剛を含めて4隻。
比叡・榛名・霧島ですが、これらはいずれも金剛の設計図面を用いて国内で建造されました。
金剛はイギリスで造られた最後の日本戦艦ということになります。
機動部隊とともに
竣工当初、世界では第一次大戦が勃発していましたが、金剛には活躍の場がありませんでした。
もっとも、イギリスから金剛型戦艦の貸与の依頼がありましたが、遠方であることを理由に断っています。
しかし太平洋戦争では大いに活躍することになります。
当時の艦齢ですでに30年ほど。
老朽艦といっても過言ではない金剛でしたが、その速力が買われ、実戦に投入される機会が多かったのです。
特に空母や駆逐艦を中心とする機動部隊にも劣らない速力を発揮できますから、それらに同行することができました。
そもそも金剛の速力を上げた理由は、水雷戦隊と共に前衛し、夜戦に参加するため。
結果的に他の戦艦のように温存するのではなく、「金剛型を駆逐艦並みの扱いで」という意見もあったほど、よく働く船となりました。
太平洋戦争では、姉妹艦榛名と共に1941年12月10日のマレー沖海戦に参加。
しかし同海域に進出していたイギリスの最新鋭戦艦プリンス・オブ・ウエールズと砲撃戦をしても勝ち目がないとの理由で、最前線には派遣されませんでした。
けっきょくプリンス・オブ・ウエールズは一式陸攻をはじめとする航空部隊によって撃沈されることになります。
その後、他の姉妹艦とともに南雲機動部隊に随伴してインド洋に進出。
クリスマス島砲撃や、セイロン沖海戦に参加します。
1942年6月に生起したミッドウェー海戦にも参加。
特筆すべき活躍を見せたわけではありませんが、戦艦として機動部隊とともに数々の作戦に参加する様は、他の戦艦には見られない光景でした。
ガダルカナルにおいての金剛の活躍
1942年10月13日、金剛をはじめとする第2次挺身攻撃隊)はガダルカナル島のヘンダーソン飛行場に対して夜間砲撃を開始します。
日本軍がガダルカナル島を確保するには大規模な輸送を行う必要があったのですが、日本軍の航空隊はすでに消耗していました。
航空機の援護がない中輸送を実行しても、ヘンダーソン飛行場に展開するアメリカ軍機に攻撃され、失敗する恐れがあります。
そこで艦砲射撃によりヘンダーソン飛行場を使えなくすることで敵の航空戦力を抑え込み、その間に輸送船団を送り込む、という作戦をとったのです。
実施部隊の指揮官である第3戦隊司令官の栗田健男中将は、危険が大き過ぎると作戦に反対しましたが、山本五十六連合艦隊司令長官に「ならば自分が大和で出て指揮を執る」と言われ、引き受けざるをえなかったそうです。
第2次挺身攻撃隊の陣容は、戦艦金剛・榛名をはじめ軽巡洋艦1隻、駆逐艦9隻。
さらに空母隼鷹、飛鷹も直掩機を発進し、途中まで攻撃隊の護衛を行いました。
23時17分、栗田長官の射撃命令を合図に砲撃開始。
金剛からは三式弾という弾丸が発射されます。
三式弾とは、簡単に言うと1つの爆弾の中にいくつもの子爆弾が入っており、敵航空機編隊の前面で炸裂、子爆弾を放出するというものです。
子爆弾の中に含まれる焼夷弾子は3000度で約5秒間燃焼。
付近の航空機を焼き尽くします。
そして0.5秒後には子爆弾の殻自体も破裂し、破片となって航空機を破壊するのです。
主に対空砲弾として使われるものですが、地上攻撃に対しても効果を発揮しました。
この三式弾を合計104発、榛名からは別の対空用砲弾を189発叩き込みます。
それらを撃ち尽くした後は従来の徹甲弾に切り替え、徹底的に砲撃。
翌0時56分の「撃ち方やめ!」の号令がかかるまで約2時間もの間、金剛は艦砲射撃を行いました。
発射された弾の数は合計462発。
榛名も合わせると実に966発。
ヘンダーソン飛行場は、一時的に機能不全に陥りました。
艦砲射撃は、成功したのです。
これで輸送船団の上陸もラクになる、と思われた矢先、アメリカ軍の戦闘機部隊が来襲しました。
ヘンダーソン飛行場の第1飛行場は確かに破壊し、敵航空機にも大きな損害が出ましたが、実は戦闘機用の第2飛行場が完成していたのです。
日本軍は陸軍も海軍もこの情報を掴んでいませんでした。
結局、輸送船団による上陸作戦は失敗。
ガダルカナルで多くの日本兵の犠牲を出すことになります。
敵飛行場の情報を正確につかんでいなかったことが最大の敗因ですが、本来輸送船団が行動する際には護衛の空母をつけ、上空直掩をするものです。
ところがミッドウェー海戦後、空母を失うのを恐れた日本海軍は、輸送船団に護衛空母をつけることをしませんでした。
輸送船団の数だけ護衛空母があったアメリカとは違い、資材不足で作れなかったということもあります。
しかし、対空兵装も少なく、丸裸の状態で海面にさらされた輸送船団が、敵航空機から身を守るのは至難の業。
この輸送船団軽視かつ空母温存の考え方が、後々の戦況にも大きく響くこととなります。
金剛の最後
ヘンダーソン基地の砲撃の後、日本海軍の戦艦は大規模な作戦に従事する機会が減りました。
金剛が次に参加したのは、1944年10月の、レイテ沖海戦です。
太平洋戦争における天王山と言われたこの戦い。
日本海軍からは空母4隻、戦艦9隻、巡洋艦20隻弱、駆逐艦34隻、航空機約600機が参加しました。
マリアナ沖海戦で大敗した日本軍。
サイパンを奪取され、次に狙われるのはフィリピンであることは予想にたやすいことでした。
ここを取られるとアメリカ軍の日本本土侵攻への足掛かりになる。
なんとしてもフィリピンを防衛しなければなりません。
そんな背景もあり、海軍は持てる力をすべて発揮し、防衛しようとしたのです。
金剛を含む栗田艦隊は10月22日にブルネイを出撃、レイテ湾を目指しますが、途中アメリカの潜水艦に雷撃され、旗艦である重巡洋艦愛宕と摩耶が沈没、高雄が大破するという事態に。
栗田中将は旗艦を大和に移し、進撃を続けます。
しかし10月24日、シブヤン海の対空戦闘において武蔵が撃沈されてしまいます。
金剛はというと、10月25日にアメリカの空母群を発見、追撃を行います。
スコールを利用して逃げ隠れの攻防戦が繰り広げられる中、逃げ遅れた空母ガンビア・ベイに対して重巡洋艦部隊とともに集中砲火を浴びせ、撃沈。
その後別の空母群へ向かう途中、集中砲火を浴びて満身創痍だった駆逐艦サミュエル・B・ロバーツを発見。
とどめを刺します。
他にも駆逐艦ホエールを撃沈したとされる金剛は、レイテ沖海戦にて3隻の敵艦の撃沈に貢献したとされています。
一通りの戦闘が終了し、大和から「逐次集レ」の報を受け取った金剛は、命令に従い北上を開始。
しかし13時28分、敵航空機に発見され、急降下爆撃を浴びます。
その戦闘でこれまでにない大きな損害を受けることに。
いったんブルネイに帰投した後、損傷が激しいため日本へ戻ることになりました。
大和や長門をはじめ、他にも軽巡洋艦や駆逐艦を伴っての帰還でしたが、台風などの悪天候と重なり、駆逐艦の一部が離脱。
戦艦部隊を護衛する艦艇が減ってしまったのです。
そんな中、11月22日の午前0時のこと。
艦隊は正体不明の電波をキャッチします。
急いで現場海域から離れるべく、速度をあげて突っ切ろうとしますが、折からの台風で軽巡洋艦矢矧が落伍、他の駆逐艦も危険な状態に。
艦隊行動がうまく取れない中、午前3時頃、金剛はアメリカ潜水艦シーライオンの雷撃を受け、2本の魚雷が命中します。
浸水や傾斜などの被害が出たものの、なんとか航行できる状態を維持。
駆逐艦2隻の護衛のもと、いったん本土への帰港をあきらめ、台湾北部の港へ逃れることになります。
当たり所にもよりますが、通常、2、3本の魚雷が命中したところで、戦艦が沈むことはありません。
金剛も沈没は免れ、航行を続けていました。
しかし艦齢30数年と老朽化が進んでおり、レイテ沖海戦でも至近弾で浸水被害を受けていたため、徐々に破損箇所が広がって傾斜が増大していったのです。
傾斜が18度になったところでようやく退艦命令が出されますが、時すでに遅し。
その後わずかな時間で金剛は転覆してしまいます。
被弾してから沈没まで2時間近くあったにも関わらず、損害を軽視したことで約1300名の将兵が艦と運命を共にすることになりました。
ちなみに、戦艦が潜水艦の雷撃で沈んだ例は、世界でも3例しかありません。
他の2例はイギリスの戦艦です。
日本では唯一の事例となりましたが、潜水艦の雷撃というよりは、老齢だったことも沈没の原因と考えられます。
日本への帰投中に沈んでしまった金剛ですが、太平洋戦争全般を通して大いに活躍した戦艦として、貢献度は高かったのではないでしょうか。