日本陸軍の戦闘機「飛燕」。
太平洋戦争中、日本で唯一の液冷戦闘機であり、本土防空戦では空の要塞B29に立ち向かいますが、度重なる故障やトラブルに悩まされた不遇の戦闘機でもあります。
今回は飛燕を見ていきます。
同じエンジンを陸海軍別々で
日本の戦闘機は「隼」や零戦のように、旋回性の良さ、軽快さをウリにしたものが多かったのですが、第二次大戦で強いドイツを支えた戦闘機にならい、速度と武装重視の「重戦」志向へと変わっていきます。
特に陸軍は、いち早くその考えを取り入れ、メーカー各社に重戦志向の戦闘機を発注。
それに伴い、中島飛行機はキ44「鍾馗」を開発します。
川崎航空機では設計主務者である土井武夫氏を中心に、重戦であるキ60、そして重戦と軽戦の間の性格をもつキ61の開発に着手。
このキ61こそが、後の三式戦闘機「飛燕」として制式採用される機体です。
陸軍からは軽戦として開発指示が出されたキ61。
しかし川崎の設計陣は重戦志向という時代の流れを読み、軽戦・重戦の区別なく「万能戦闘機」を目指してキ61の開発に臨みました。
大戦当時の日本の戦闘機は空冷エンジンが主流だったのに対し、飛燕は液冷エンジンでした。
熱を帯びたエンジンがオーバーフローしないように、空気で冷却するか、液体で冷却するかの違いなのですが、当然ながら機構や製造方法が異なります。
川崎航空機は大手航空機メーカーでは唯一、液冷エンジンを得意としていました。
キ60、キ61に搭載されたのは、「ハ40」というエンジン。
ドイツのダイムラーベンツ社が開発した「DB601」というエンジンのライセンスを取得し、国内で製造したものです。
ちなみに同じDB601のライセンスを、日本陸軍と日本海軍は別々に取得し、陸軍では「ハ40」の原型となり、海軍では「アツタ」エンジンの原型になりました。
名前はことなりますが、中身はほとんど同じエンジンです。
ライセンス取得にかかった費用は1契約につき約50万円で、陸海軍合わせて100万円。
今の貨幣価値に直すと約120億円にのぼります。
当時陸海軍は最も反目しあっている時期だったために、共同でのライセンス取得には至りませんでした。
和製メッサー「飛燕」の誕生
模擬空戦の結果、中島飛行機が開発した「鍾馗」の性能が優れていたことで、陸軍は重戦に目途がついたと判断し、キ60の計画は採用されませんでした。
その代わりキ61の開発は認められ、1940年から細部の設計を開始します。
機体はドイツのメッサーシュミットbf109という戦闘機を参考に設計され、エンジンも同系統のものを搭載したことから、「和製メッサー」とも呼ばれました。
液冷エンジンは空冷エンジンに比べて小さいこともあり、機首は今までの日本機にはないスリムな形状に。
空気抵抗を抑えるため、キャノピー後部と胴体が一体化したファストバック方式を採用し、主翼・胴体は頑丈でかつ生産性の高い構造となるように工夫するなど、川崎設計陣の技術が結集した機体となりました。
太平洋戦争が始まって4日後の1941年12月12日に試作1号機が初飛行。
時速590キロをマークし、関係者を驚愕させました。
当時陸軍の戦闘機は「隼」で時速490キロから510キロ前後、速度重視の重戦「鍾馗」でさえも時速580キロほどでした。
設計した土井氏自身も、ここまでスピードが出るとは思っていなかったそうです。
トラブル続出の飛燕
開戦初期は優位であった日本でしたが、1942年4月18日、衝撃的な出来事が発生します。
アメリカ軍のドーリットル中佐指揮のB25爆撃機による、初の日本本土空襲です。
この時、たまたま茨木県の水戸にあった陸軍射爆場に12.7ミリ弾発射テストの為、飛燕の試作機が2機ありましたが、他の友軍機と同時に迎撃に上がりました。
不確実ですが、飛燕はこの戦闘でB25を1機撃墜したという話も残っています。
ちなみにこの時、飛燕は宮城上空で海軍の零戦と遭遇したのですが、敵と間違われて襲われそうになりました。
原因は機体に描かれた日の丸の位置。
海軍機は翼にも胴体にも日の丸が描かれていましたが、当時の陸軍機には翼に日の丸はあったものの、胴体には描かれていませんでした。
そのため海軍からすれば、友軍機と識別できなかったのです。
また飛燕は試作段階であったため、海軍のパイロットが見慣れない飛行機だったということもあります。
当時迎撃に上がったテストパイロットの荒蒔大尉は、友軍機に会うたびに敵と間違えられたので、翼を上下に振り、日の丸がついていることを見せ、同士討ちを免れたそうです。
その後1943年に入り、飛燕は飛行第68戦隊、第78戦隊の装備機としてラバウルへ送られます。
ニューギニア・ソロモン方面の状況が芳しくなく、劣勢を挽回するためです。
しかし訓練もままならず、ハ40エンジンの整備にも手間取るなど、上々の滑り出しとはいきませんでした。
活躍以前に、現地に到着できなかったのです。
68戦隊では27機中、無事にラバウルに到着したのは15機のみ。
一方の78戦隊は45機中33機のみ。
68戦隊に関しては、隊長機が航路を間違えたために燃料不足に陥り、次々と目的地以外の場所に不時着してしまったことが理由のひとつですが、根本的な原因は、パイロットの訓練不足と、ハ40エンジンの取り扱いの難しさにありました。
特にエンジンに関しては整備員がこれまでに見たことがない液冷エンジンであり、整備マニュアルも難しい漢字や用語が多く、理解ができなかったといいます。
日本に限ったことではありませんが、当時は文字が読めない人がまだまだたくさんいました。
しかしアメリカなどでは文字が読めなくても理解できるように、わかりやすい図で解説されていることが多かったのです。
こういった細かい部分が、戦闘機の稼働率に影響を及ぼしていたと考えられます。
本土防空任務で活躍した飛燕
ラバウルから東部ニューギニアのウェワクに進出した68戦隊、78戦隊は、徐々に戦力を補充しながら活躍しました。
アメリカ軍のP40戦闘機と数多く戦いましたが、飛燕のほうが優勢で、一時は日本軍が制空権を握るまでに挽回。
しかしその後P38やP47などの新型機の登場で形勢が逆転し、飛燕の損耗も増えていきました。
1943年末には連合軍戦闘機400機が襲来。
その時迎撃に上がれたのはたった48機でした。
そのうち飛燕は16機のみ。
結果は火を見るよりも明らかですが、その中でも68戦隊の小山伍長はP40やP47を3機撃墜し、自らの飛燕も29か所の被弾を浴びながら生還。
エンジンが好調に稼働していれば飛燕は十分戦えたことが伺えます。
しかしその後は数で圧倒する連合軍が勝り、日本軍は1年ほどでニューギニアからの撤退を余儀なくされました。
1944年末からはアメリカのB29による日本の都市への空襲が始まりました。
このB29に対する迎撃で、飛燕に白羽の矢が立ちました。
1944年11月1日、偵察のために東京上空に姿を現したB29に対して、日本軍は飛行第47戦隊の鍾馗と飛行第244戦隊の飛燕が迎撃に上がりました。
しかし高度1万メートルを飛ぶB29に対し、鍾馗や飛燕のエンジンではその高度に達することさえ難しく、浮いているのがやっと。
1斉射するだけで高度が2000~3000メートルも下がってしまい、戦闘になりませんでした。
「震天制空隊」と呼ばれる体当たり専門の部隊も結成され、撃墜に成功しつつ自らも生還する猛者もいましたが、全体的に大きな戦果を挙げるには至りませんでした。
エンジンをより強力なハ140に換装予定のキ61二型改なども登場しますが、エンジンが間に合いませんでした。
しかしその後、方針の変更によりB29は爆撃時の飛行高度を下げ始めます。
それと共に飛燕の体当たり攻撃も減り、B29撃墜破の数も増えていきました。
最終的に、飛行第244戦隊だけでB29を73機撃墜、92機を撃破したのです。
B29の総出撃機数からすれば大した数ではないのかもしれませんが、少なくともB29の搭乗員たちにとって、日本本土への爆撃は決して安全で楽勝な任務ではなかったということです。
優秀な機体でありつつも、エンジンに泣かされた飛燕。
整備が難しく稼働率が低かったのも活躍が制限された理由の一つですが、当時の日本ではハ40やハ140の工作自体が難しかったことも影響しています。
熟練の行員不足に加え、エンジンを作るための部品も不足し、エンジン製造が間に合いませんでした。
その結果、川崎航空機の岐阜工場では、胴体は完成したのにエンジンがついていない、いわゆる「首無し機」が大量にあふれ、工場内では収まり切らずに国道21号線沿いに、2キロに渡って並んでいたそうです。
この首無し機は後に空冷エンジンに換装された「五式戦闘機」として活躍をすることになりますが、優秀なエンジンを搭載した飛燕の活躍も、見たかったものです。