試作のみで終わった局地戦闘機「震電」。
量産された暁には戦局を挽回すると期待されていた震電ですが、果たして真価を発揮できたのでしょうか?
今回は震電の開発経緯を見ていきます。
前翼型の革新的なフォルム
1942年6月のミッドウェー海戦以降、戦局が徐々に後退しつつあった日本軍。
無敵を誇っていた零戦もアメリカ軍のF6Fヘルキャットの出現でその優位性を保てなくなり、新型戦闘機の開発が待ち望まれていました。
中でも近い将来、超重爆B29の本土空襲が開始されることも予想されており、これに対抗できる局地戦闘機の開発を模索していました。
海軍航空技術廠、いわゆる空技廠飛行機部の鶴野正敬大尉もその一人。
B29の高高度に追いつき、防弾に優れた機体を打ち破る強力な火器を搭載し、敵の護衛戦闘機の追撃をかわすほどの速度をもった戦闘機を開発するには、従来の形では限界がある。
そう確信していた鶴野大尉は、前翼型戦闘機を構想します。
ドイツ語で「エンテ型」と呼ばれるこの機体は、主翼が胴体の後方に位置し、主翼の前に水平の小さい翼を設置したもの。
エンジンやプロペラはすべて後方にまとめて配置されており、これまでの日本機にはない独特のフォルムでした。
前にプロペラがないことで空気抵抗が減り、今までムダに遊ばせていた胴体後方にエンジンなどを集約することで機体容積を有効活用できます。
また、前方についた小さな翼でも揚力が発生するので主翼を小さくするこができます。
フォルム自体を変えることで限界まで空気抵抗を減らし、速度UPに注力したのです。
当時は各国でも前翼機の開発が行われていましたが、実用化に至ったものはありませんでした。
それゆえ「現実的ではない」という反対意見もありましたが、欧米の新型機に対抗するには従来のものではだめだという認識は軍の中にも広がっており、原理的に可能であるなら、と開発に賛同する声も多かったようです。
400ノットを目指した震電
こうして後の「震電」となる十八試局戦は1943年8月から風洞実験を開始。
実験用グライダー「MXY6」を使って高度およそ1000m程からの滑空試験を経て2月には試作機の開発を内定。
共同開発会社として九州飛行機が選定されます。
当時陸上哨戒機「東海」の開発が完了し、他の航空機会社に比べ手空きであったことが選ばれた理由です。
空技廠からは鶴野大尉らが技術指導のため同社へ出向、泊まり込みで開発に打ち込みました。
開発にあたって、用兵側からは空戦フラップの設置を要求されました。
これは戦闘中に旋回性を良くするための装置で、小回りをきかせて空戦を有利に戦うためのものです。
しかし空技廠はこれを拒否。
震電はB29に対して一撃離脱を行い、その後敵戦闘機の追撃を振り切る想定で開発される戦闘機であり、フラップを駆使するような空中戦は想定していなかったのです。
これまでも「速度重視」と言いながら結局空戦性能も付与させることで思ったほど成果の出せなかった日本軍の戦闘機。
次こそは、そうはさせまいと考えたのでしょう。
軍令部参謀の源田実中佐からも「400ノット以上の高速戦闘機が欲しいからこれをやるのであり、あまり付帯要求を出しすぎて速度が落ちるようなことがあってはならぬ」という指導的意見があり、空戦フラップは搭載しないことになりました。
400ノットとは、時速740キロ程度です。
当時の最速戦闘機だった四式戦闘機「疾風」でも時速650~680キロ。
それをも上回る速度の機体の開発に、鶴野大尉は頭を悩ませました。
風呂場で「400ノット、400ノット」と掛け声をかけて背中を流していたことから、それがあだ名になったという言い伝えもあります。
それぐらい速度にこだわりました。
高速を実現するための工夫は、フォルムだけではありません。
エンジンには零戦の後継機と言われた艦上戦闘機「烈風」と同系列で離昇出力2,130馬力の三菱製「ハ43」四二型を搭載。
推進式プロペラは局地戦闘機「雷電」にも採用されたVDM社製を住友金属でライセンス生産した電動式のガバナー採用モデルを使用するなど、当時の技術で最高のものを使用。
また生産性を高めるため、モノコック構造の採用による、リベット打ち工数の大幅削減を実施。
これは艦上偵察機「彩雲」にも採用された工法で、零戦の1/2のリベット数で組み立てられるようになっています。
夜中に牛車で運搬された震電
これらの工夫に加え、プロペラが後方にあるからこその改良も重ねられました。
パイロットが緊急脱出をした際、体は機体の後ろに流れていくのですが、その際にプロペラに巻き込まれてしまう危険性があります。
これを回避するため、「プロペラ飛散装置」を設置。
プロペラの根元に爆薬をしかけ、脱出時にはあらかじめプロペラを吹き飛ばすというものでした。
また機関砲の射撃後、薬莢を機外に捨てるとプロペラに衝突する危険があるので、機体内に格納する箱も設置されました。
1944年5月、十八試局地戦闘機、震電が正式に試作発令されます。
海軍の要求は1944年の4月から製図に取り掛かり、同年末には機体を完成させよという無茶なものでした。
そのため九州飛行機では近隣のみならず奄美大島、種子島、熊本などからも多くの女学生、徴用工を動員。
また技術者を集結させ、通常1年半は掛かる製図作業をわずか半年で完了。
約6000枚の図面を書き上げます。
全力をもって開発にあたりましたが、エンジンを生産する三菱重工の名古屋工場が空襲により被災し、開発は大幅に遅延。
また九州飛行機自体もB29の空襲を受け、現在の筑紫野市原田へと工場の疎開を決定。
部品の運搬は夜中に牛車で行われました。
度重なる苦労の末、1945年6月にようやく試作1号機が完成。
鶴野大尉自身による試験飛行が行われましたが、機首を上げ過ぎたために、プロペラ端が地面に接触して先端が曲がってしまいました。
初飛行の成功は8月3日。
6日、8日と試験飛行を続けましたが、そのまま終戦。
実戦に投入されることはありませんでした。
震電は真価を発揮できたのか?
震電が迎撃に舞い上がり、B29を撃墜する姿を見ることは叶いませんでした。
完成すればB29による本土空襲は見直しを余儀なくされていたかもしれない。
そんな意見もありますが、果たして震電はそこまでの成果を発揮できたのでしょうか?
たとえば3回の試験飛行では、エンジンは全開にせず、降着装置、つまり脚を出したままの状態でした。
それにも拘わらず、機体は右に傾いたまま飛行し、機首が下がり気味になったり、油温の上昇なども報告されていました。
雷電で問題になった延長軸の震動は起こりませんでしたが、これは低速であったためです。
エンジンを全開にしていればどうなったかはわかりません。
また三本の長大な脚。
エンジン全開で飛行すれば時速740キロに達するわけですから、当然着陸速度も速くなります。
高速での着陸に対して、長い脚が耐えられるのか?
これまでも日本軍の航空機は降着装置の脆弱性がたびたび問題になっており、震電もまた例外ではなかったと思われます。
その他にも減速機や強制冷却ファン、薬莢を収納する箱など新機能を搭載することで重量が増し、予定の速度が出せたかは定かではありません。
また車輪のはねた泥、小石などがプロペラに当たる野戦飛行場には向かないため、整備された長大な滑走路が必要であり、実際に運用できる飛行場が限定される可能性がありました。
そして何よりも、ハ43エンジンの信頼性。
大戦を通して日本の戦闘機にずっとのしかかってきた問題です。
これらを考え合わせると、完成したとしても改良すべき点がいくつもあり、実稼動までには相当な時間を要したのではないかと推測されます。
そして稼動する頃にはアメリカ軍も震電を上回る能力の戦闘機が出現しており、勝てなかったかもしれません。
それでも震電が有名であり人気なのは、先進的なフォルムと強力な武装で、日本の空を守っていたかもしれない。
そんな夢を見させてくれる戦闘機だったからではないでしょうか。