日本海軍唯一の夜間戦闘機として活躍した「月光」。
ですが、最初から夜間戦闘機だったわけではありません。
今回は登場から様々な転機を経て終戦まで活躍した月光にスポットを当てます。
長距離護衛戦闘機の開発を
第二次世界大戦がはじまる1930年代は、各国とも大型戦闘機の開発競争がさかんでした。
アメリカではP38ライトニング、ドイツではメッサーシュミットMe262など。
日本でもその影響を受け、大型機の開発が進められます。
特に1937年に始まった日中戦争において、長距離を飛ぶ爆撃作戦に随伴できる護衛戦闘機の開発を望む声が第一線の指揮官たちから上がっていました。
1938年11月、海軍は中島飛行機に対し、「十三試双発陸上戦闘機」計画要求書を提示。
航続距離は3700キロ、最大速度は時速510キロ以上、さらに開発中の十二試艦上戦闘機、つまり後の零戦と同等の運動性を持ち、爆撃機と同等の航法装置と通信機器を装備できることが条件でした。
爆撃機と同等の航法装置とは、現在位置や燃料残量などを計算しながら飛行することができ、作戦終了後は出発した基地に戻ってくる能力を有する装置のことです。
長大な航続力に必要とされる大量の燃料に比べて発動機の出力が小さいことから、大面積の主翼が必要となりました。
その結果、高速航行は難しいとされましたが、前縁スラットを装備したり、20ミリ機銃を命中率の高い機首装備にすることでそのぶん機銃の数を減らしたり、7.7ミリ旋回機銃を空気抵抗が増加しない遠隔操作式とするなど、可能な限り速度の低下を防ぐための手段を講じました。
中島飛行機は1941年3月26日に試作一号機を完成させ、5月2日に初飛行を行います。
速度や航続力はほぼ要求通りでしたが、運動性能が零戦に比べてはるかに劣り、敵戦闘機との戦闘には不足だと判断されたこと、遠隔操作にした7.7ミリ旋回機銃の動きがとても鈍く信頼性に欠けていたこと、また既に零戦が長距離援護戦闘機として活躍していたこともあり、残念ながら戦闘機としては不採用となってしまいます。
偵察機に転用
戦闘機としてのデビューができなかった十三試双発陸上戦闘機でしたが、新たな使命を与えられます。
当時海軍が持っていた九八式陸上偵察機に比べ高速で航続距離が長いこと、そして前方機銃があることや空戦に耐える機体強度を持っているなど、ある程度の自衛戦闘が可能な点に注目し、この機体を強行偵察にも使える偵察機に転用することにしたのです。
1942年3月から試作機の偵察機転用のテストが行われ、7月6日に二式陸上偵察機として制式採用されます。
同月、偵察用カメラを追加した3機がラバウルに配備され、ガダルカナルに偵察を敢行。
約1,000キロという長大な距離を飛行し、前線司令部に貴重な情報をもたらしました。
その後、各部隊に配備され、敵情の把握において力を発揮するのですが、アメリカ軍の戦力増大に伴い、徐々に被害が出るようになりました。
そのため、より高速の二式艦上偵察機や陸軍から借用した一〇〇式司令部偵察機の方が重用されるようになります。
十三試双発陸上戦闘機は、またも活躍の場を失ってしまうのです。
斬新なアイデア
1942年5月。
第251海軍航空隊司令である小園安名中佐は、ラバウルに進出しているアメリカ軍大型爆撃機B17に悩まされていました。
従来の日本の戦闘機では撃墜が難しかったのです。
そこで本来は戦闘機として開発されていた二式陸上偵察機に着目。
機体上部に斜め上に向いた機銃を設置し、B17の死角である下方から迫って平行に飛行しながら攻撃を加えるという案を思いつきます。
これならば零戦ほどの運動性がない二式陸上偵察機でも対応でき、航続距離も長いのでB17に追随することができると考えたのです。
内地に帰還した小園中佐は海軍航空技術廠に提案しますが、最初は「話にならん」と一蹴されます。
しかし粘り強く提案し続けた結果「実験ぐらいはやらせてもいいんじゃないか」ということになり、3機の二式陸上偵察機に斜銃を取りつける改造が施されます。
改造機のテスト結果は良好で、斜銃は高い精度で目標を射抜くことに成功。
いけるとふんだ小園中佐は、改造機2機を伴ってラバウルへ戻ります。
1943年5月20日、工藤重敏上飛曹が搭乗する斜銃装備の二式陸上偵察機が、2機のB17を撃墜、その後小野了中尉も撃墜を記録するなど、6月末にはB17の撃墜数9機という大戦果を打ち立てます。
この戦果により、ようやく軍令部は斜銃の効果を認め、第251海軍航空隊の二式陸上偵察機の全機に対して斜銃搭載型への改造を命令。
1943年8月23日に制式採用に伴い、夜間戦闘機「月光」が誕生します。
夜間戦闘機となったのは、夜間に爆撃を行うB17をはじめとする爆撃機に対抗しうる兵器だったからです。
夜間戦闘機として
月光が登場して以降、しばらくの間はB17やB24の夜間爆撃を抑える効果がありました。
特に工藤上飛曹は月光で10機の爆撃機を撃墜。
月光以外でも2機の爆撃機の撃墜を行っており、日本海軍の中でもトップの成績を誇りました。
しかしそれでも戦局は連合軍優位に傾いていきます。
優勢になったアメリカ軍は、効率の悪い夜間爆撃ではなく、昼間に爆撃を行うようになります。
月光は昼間の爆撃にも出撃しますが、どちらかというと夜間偵察や敵基地等の夜間襲撃等に用いられることが多くなりました。
敵基地の攻撃のために、斜銃を下向きに設置されたものもありました。
また、月光はフィリピンの戦いや、本土防空戦にも用いられました。
B29の登場で速度、高度ともに追いつけなくなり、活躍の場は減っていきましたが、第三〇二海軍航空隊の遠藤幸男大尉がB29撃墜破16機という戦果を挙げ、彼の名と共に、月光は国民から英雄視されることになりました。
B29迎撃のための局地戦闘機「雷電」の開発などにより、月光の生産は1944年10月に終了。
総生産機数は二式陸上偵察機も含めて477機で、この内40機が終戦時に残存しました。
生産は終了しましたが、結局、雷電をはじめ月光の後継機である試製電光、試製極光などの開発遅延により、月光は終戦まで活躍し続けます。
「役立たず」の烙印を2度も押されながらも、関わった人たちの知恵と工夫で最後まで重用された月光。
まさに日本人の「あきらめない心」や「もったいない精神」が結実した機体と言えるのではないでしょうか。